Friday, June 26, 2015

特別な朝


昨晩は、自分の中の普段隅っこにいたり、存在を消しているような感情が
ばーっと出てきた。
しかも話し言葉で。
私にはとても珍しい事。

実はあまり、自分の事を話すのは得意ではない。


昨晩の心友との会話は、言葉の選択があまり適切でなかったようにも思える。
言葉って便利だけど、難しい。
わたしには。

その問いの答えは、寝てあっちに委ねる事にして昨晩は目を閉じた。
意識がいつあっちにいったのかも覚えてなんか無い。

いつのまにか朝がきて、いつものように伸びをして、
ここが自分の居場所であることを、覚め行く意識の中で、視覚、聴覚、嗅覚、触覚を使ってカチッ、カチッと組あわせていく。

無意識と意識の狭間で見る夢のような、ぼんやりとはじまる現実を受け入れていく数分間。

そらから雀の朝の食事の邪魔をしないように、そーっと玄関のブラインドから外の様子を眺めて、最高のタイミングを見計らって朝に会いにいく。

『朝に会う』という能動的な感覚を知ってからというもの、以前よりもより一層太陽、地球のエネルギーを取り入れる事が出来ているような気がする。
世界を照らし始める太陽は存在するすべてに分け隔てがない。
平等。

そんな事に感謝しながら大きくポジティブなエネルギーを頂く。

ゆったりと座り、手のひらを天に向け、左右に軽く体をゆらして落ちつくポジションで座禅を組み細くゆっくりと息を吐きながら睫毛の重さを意識するくらい丁寧に目を瞑る。
夜明けは生物、植物、鉱物すべてが徐々に徐々に波動を高めていく時間、わたしもそれに便乗してすーっと自然界にとけ込んでいく。

いつもなら。

でもね、今日は違った。
筒状の私の体には心というモノが存在していて、そこにざわざわした物があって、しばらくそれを眺めて受け流してはいたものの、そのひだひだは小さくはなったけれど、さらさらと流れてはいかなかった。

昨晩の、あっちに返したはずの何かはかえっていなかったようだ。


それを受け止めながらもしばらくそこに居座り続け、かれこれ1時間弱がすぎていた。



「伝える事」


最後にはそんな事が浮かんできた。


なんの事だかさっぱりわからないけど、否定はしない。
それはそれとして。


いつものように店にきて、いつものように掃除する。
いつものようにって言えるのは実は奇跡の連続のなかにいますよってこと。
本当は何一つ永遠に確実なことなんてないんだ、これは決してネガティブな思考ではない。
それをそれとわかった上で「暮らし」を営む事ができたらきっと手にした喜びは数倍の輝きを放ち、色とりどりの色彩を持って寄り添うのだろうとおもう。

きっとそんな事はみんなわかっていて、あえて口にしないだけだと思う。
私なりの言葉ではこんな感じだ。



さて、そうこう云々しているところで、ある人にある電話をする事にした。
同じ事を言わなければいけない人は沢山いるのに、なぜか、なぜだか、本当に無意識にその人に電話をしていた。

「おー、ちさき!」

全く、相変わらずだ。
愛情を込めてこの言葉を選んだよ、今。


それから数分間、共通言語による会話はすすんだ。
もう長い付き合いの彼は驚くほどに多角的に物事をみていた。
肯定も否定も無いその言葉の選択はとても耳障りもよく、琴線にもよいかんじで触れ、それだけにより一層深い感情に訴えかけてきた。

判断を委ねられている感じだ。
フムフム。
天の邪鬼な私は、受け入れる前のフィルターが厚かったり、わざと目詰まりを起こす事もある。
面倒だなと自分自身を俯瞰する事もある。


なのに、今日は違った。


今なのだ。
いまここで、なのだ。


私は自分の物作りのことを生活と思っている。
そこに隔たりは無く生活の中での事がそのまま表れる。
だから自分は「ちゃんと」していたいと思う。
(そう思うのは本来の自分がそうでない事を知っているからだとおもう。)

それを彼は私がそう思うように感じるように導いてくれていた。
なんなんだ!


そして、わたしはそれらをうけとって自分の事をモノ作りの事をしっかりと、実感を伴い
伝えていた。


伝えることで、ぼんやりしていた輪郭が浮かび上がってきた。
その輪郭をなぞりながら全体像を把握して、きっとこれからは細かな仕組みを理解していくのだろう。


昨晩からのモヤモヤ、朝のひだひだ、瞑想からのメッセージ、今。

そういう事でしたか!と膝を打つとはこういう事か。




思いも寄らない事の重なりでいつものようにすぎていくはずの朝が特別な輝きを放った。
まぎれも無く光あふれる特別な朝を迎えていた。






ちさき
2015年 6月26日 佳き日


久々のブログ、久々の長文。
失礼しました。


























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